縁起

田ノ口薬師/月光山東照宮

古くから田ノ口薬師(たのくちやくし)の愛称で親しまれておりますが、正式には月光山東照寺(がっこうざんとうしょうじ)と申します。奈良時代の高僧である行基和尚(668-749)を開基とした真言宗のお寺です。真言宗の開祖弘法大師(774-835)の十大弟子の一人である実慧大徳(786-847)が承和4年(837)に大師の遺跡を巡拝された折、当山にも足を留められ、日本三薬師の名をつけたと言われております。

ご本尊を造像する弘法大師
ご本尊を造像する弘法大師

御本尊の薬師瑠璃光如来は弘仁12年(821)に弘法大師が満濃池を改修なされた帰途、当山に立ち寄り造像されました。その時に弘法大師が所持されていた印度、中国、讃岐の3つの土が御本尊に用いられています。丈2尺3寸の乾漆塑像の薬師瑠璃光如来は弘法大師自作の証として背面に手印と空海の御名が刻まれています。

当山の前にて動けなくなる長宗我部元親
当山の前にて動けなくなる長宗我部元親

天正年間(1573-1592)、焼き討ちのため長宗我部元親(1539-1599)が当山に火を放とうと近づくと、身体の自由を失ったため、堂塔の造営を約束して詫びたところ、ようやく身体の自由が戻り通行できるようになったと言われています。当時、御本尊は北向きに坐しておられましたが、堂前を乗馬のまま通行する者はしばしば落馬したと伝えられています。

松平候の前に現れた導師
松平候の前に現れた導師

寛永年間(1624-1644)に高松藩初代藩主の松平頼重(1622-1695)が巡視のため当山の近くに立ち寄られた際、御本尊の薬師瑠璃光如来が導師の姿となって現れたと言われています。その霊験に感ぜられた松平候は、篤志を以って山林田畑九町余りを仏飯田として当山に寄進されました。
江戸時代においては琴平町にある金丸座へ興行に向かう上方歌舞伎の名優多数が、行き帰りの際にわざわざ湊にて下船し、当山を参拝したと伝えられています。海上の安全や興行の順調を祈願し、その日は福栄や大内など近在の方々が名優を見るために集まったそうです。